
藤井隆
コメディアン
藤井隆
コメディアン
1992年吉本新喜劇入団。2000年「ナンダカンダ」で歌手デビュー。同年、紅白歌合戦にも出場。2014年には自身がレーベルヘッドを務める「SLENDERIE RECORD」を設立。楽曲プロデュースも行う。俳優としても舞台やミュージカル、映画にも出演多数。
土田晃之さん、つっちーと意見が合ったのは「スープが好き」ってことでした。つっちーは「冷たくてつらいお弁当でもスープがあれば乗り切れる」と言ってました。
ボクはスープは勿論、ホワイトでもブラウンでもシチューは大好物だし、中華料理店の特別とろりとしたコーンスープは、入っている器とおたまも込みで永遠に憧れだし、初めて酸辣湯に黒酢をかけ入れてひと口飲んだ時は、一生選ぼうと思ったぐらいです。 選べるなら豚汁を選ぶし、お味噌汁を選ばなかったのは豚汁が横にいただけで、お味噌汁は勿論ずっと好きで、いつもそばにいて欲しいと思っています。
MISO soup お味噌汁の思い出を書きます。
母方の祖母が高知の山奥に暮らしていた。祖父が亡くなってからひとり暮らしをしていて、 子供や孫たちは休みの都合を調整して誰かが行ってはたまに顔を見せるようにしていた。都合が重なって何人かで行く時もあれば、誰かがひとりで行く時もあった。2〜3日でも、数週間でも、行ける人が行けるだけ行った。
小学6年生の時、ボクも初めてひとりでフェリーとバスに乗って夏休みの間を使って祖母に会いに行った。長い時間バスに乗っていて、料金が「カチャ」っと上がっていくのを見つめていた。半額の子供料金の表示を見つめていたのを憶えているので、小学生最後だったはず。
山の中の小さな村には、週に2〜3回、隣の町から食材や日用品を載せて売りにくるトラックがスーパーマーケット代わりだった。祖母は「大阪から孫が来てる」と店主さんに伝えて、カツオだ、鰻だ、と美味しいものを買って料理してくれた。ご馳走も嬉しかったけど、ボクは名物のじゃこ天が好物で買ってもらった。炙っておろし生姜をのせて醤油で食べるじゃこ天は最高だった。
中でも一番好きな食べ方は、朝のお味噌汁に入ってるじゃこ天だった。祖母の作ってくれるお味噌汁は、大きなおじゃこと立派な鰹節でしっかり出汁をとり、ねぎ、玉ねぎ、たまご、かまぼこ、そしてじゃこ天が入ってて、お味噌汁だけでお腹いっぱいになる味噌汁だった。
夏休みの間、当たり前に毎朝お味噌汁とごはんを食べていたのだが、次はなにが食べたいかと聞かれた時にふと「食パン!トースト!」と言ってしまった。祖母はパンをあまり食べないので食パンは無く、なによりトースターが無いのに。季節外れの鮎とかマグロのお刺身とかそういうのはよくないな、と漠然と頭に浮かびながら、いちばん困らせてしまうようなリクエストをしてしまった。
その日、夕方に来るトラックの移動販売には祖母がひとりで行った。食パンは無くて「今度なら」ということで、翌朝も翌々朝もお味噌汁とごはんをいただいた。
2日後の夕方、一緒にトラックへ行ったら店主さんに「待たせたねぇ。悪かったねぇ。」と謝られてしまい、なんとも申し訳無い気持ちでいっぱいになった。優しいおばあちゃんは「隆ははよ食べたいじゃろ」と早めの夜ごはんにお味噌汁とおかずと一緒に食パンを出してくれた。トースターが無いのでフライパンでトーストしてくれた。バターも一緒に買ってくれていた。
「わ〜い」なんて言いながら。「ありがとう〜」なんて言いながら。ほんとは胸がチックチク痛くて「悪いことしたなぁ」と祖母の顔が見られなかった。とはいえ、バターと味噌の相性の良さを知ったのはこの日で、それは味噌バターラーメンを食べる何年も前だった。
大阪に帰る日の冷蔵庫にはあの日にだけ使ったバターが残ったままで、兄貴や親戚の姉ちゃんにこのことが知られたらおおごとで「おばあちゃんを困らすな」と怒られるだろうなと、しょぼんとした。今はすっかり夕方に食パンを食べるのは平気になったけど、食パンとお味噌汁を合わせるのはなんだか寂しくなるからやらない。